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hiromi morota

諸田 広美(もろた ひろみ):メゾソプラノ
Hiromi MOROTA:Mezzosoprano

イタリア国旗 L'italiano(PDF)

多感な20代前半のイタリア留学と再留学により培った、イタリア人のようなティンブロ(Timbro,音色)・表現力・ディクションをもつ、
リリックなメゾソプラノ。
ロッシーニからヴェルディまでのイタリア・オペラを中心に、イタリア歌曲、モーツァルト作品、フランス・オペラなどの演奏を得意とする。

プロフィール

8月22日群馬県前橋市生まれのB型。

幼少時代は、美術や書の分野にも才能があり、余るほど賞状をもらう。
県内一の進学校に進学し、最初は医学部を目指すものの、理科が苦手で断念。
声楽を専攻すると決め、芸大を受験するものの不合格。
その反動か?地元の大学に入学しても勉強よりもサークル活動にあけくれる日々。
果ては女性初の文化祭実行委員長を務め、友人とともにJAZZ研究会も
創立するほど

しかし!この器用貧乏さを何とかしなければと奮起。
それまで奔放な私を見守ってくれた先生方の助けもあり、
大学後半は声楽の勉強に専念する。
何故か日本の大学院進学よりも留学!と思いつき、3カ月間イタリア語を猛勉強し 、
ロータリー財団奨学生に合格してしまう ;)
それが、私のオペラティック人生の始まりとなる。

1997年8月末、Milanoに到着。
翌日には、語学研修のためFirenzeに到着。
それは忘れもしないダイアナ妃が亡くなった日。
今では笑い話だが、ホストマザーが一生懸命 「ディアーナ」と
言っているのに、、、「ああ!ダイアナかあ」と語学力がなかったため後になって理解。
1カ月経って研修が終わり、やっとMilanoへ。

私立ミラノ音楽学校に入学。声楽のレッスンに加えて、
これまで演技の勉強をしたことがなかったので、Arte Scenica(舞台芸術)も受講。
音楽学校以外の時間は、スカラ座にオペラを観に行ったり、イタリア語学校に通ったり、フラメンコまで習ったり・・・と、あっという間に1年は過ぎようとしていた。
そんなとき、イタリア国立ミラノ・ヴェルディ音楽院のJenny先生を紹介してもらう。
日本で声楽科を卒業しなかったため、イタリアのConservatorio(音楽院)に入学したいという気持ちが強くなっていった。

しかし、1度目の受験は失敗。幸運にも市立ミラノ音楽学校には合格し、
そこで後にイタリアの父と呼ぶようになるGIOMBI先生との出会いがあった。
1年間市立の音楽学校に通い、ヴェルディ音楽院に2度目の挑戦をし、晴れて合格。
しかも、日本人は1人だけだった。
こうして、GIOMBI先生とはプライベートで勉強を続けることにした。
先生とはよく勉強し、よく遊び、距離が近くなればなるほど、よく喧嘩もして、
思い出は尽きない。一番おかしな思い出は、先生の別荘があるTrieste郊外の
Muggiaにあるオズミッツァと呼ばれる自家製ワインと生ハムの店巡り。
季節によってもストックが変わるので、営業しているときは道に矢印があるのだが、
それをたどって(定員オーバーのスクーターで)よくオズミッツァ探しをしたものだ。

Milano生活も4年目に入った頃、もう挑戦できる奨学金はなくなり、
いよいよ帰国するかどうかの決断の時がきた。
音楽院卒業まであと1年で授業も声楽だけになるし、
働きながら残ることも可能だったかもしれない。
しかし、私はまだ日本で声楽家として知られていない。
このまま勉強を続けても、帰国して発表の場がなければ勉強の意味がないのは・・・
同時に、イタリアでどんなに貴重な経験をし成果がでても、日本の人たち、
特に地元群馬の人たちは「へえ〜」くらいなもので、それに対する悔しさもあった。
結局、日本の学歴で判断するのか、と。
「だったら、日本で最高の芸大を受けてみよう!」と何故か思いつく。
実際、合格したときに態度を変えた友人もいた。。。
芸大の人たちは「なんで、イタリアの後に芸大に来たの?」とよく聞いたものだ。
私の思いは複雑だった

そんな私を、世界のプリマ・ドンナ、林康子先生がクラスに拾ってくれた。
先生以外に就きたい先生もいなかった。
イタリアでマスターできなかったことでも、先生から学んだことは沢山ある。
それらを在学中は表現しきれず、先生をいつも悩ませた。
加えて、オペラ科で学べだことが何よりの財産☆
オペラの勉強はもちろんだが、精神的にも肉体的にも鍛えられた。

2005年春、二期会オペラ研修所を修了。
中村健先生はじめ、多くの方々にお世話になった。
修了直後に二期会デビュー、という機会も与えてもらった。

その波に乗って、日本で演奏活動を続けるのもよかったが、
私はイタリアでやり残したことを常々感じていた。
幸運にも文化庁在外研修員に合格し、再留学のチャンスを与えられ、
2005年10月末Romaへ出発。
なぜ再びMilanoを選ばなかったか?って?
もともとRomaの街が好きだったけれど、最初の留学のときは学校の問題もあって、
Milanoを選んだ。
それと、康子先生に「あなたはもっと南で勉強した方がよかった」と言われたことがあり、頭にひっかかっていた。
何より藝大で指導を受けたROACH先生が、Romaに戻り、
文化庁の受け入れ先として招待してくれたのが大きい。
お陰で、ローマ歌劇場で勉強することもできた。
Romaでは、往年のメゾソプラノ、Anna先生との出会いがあり、
はじめてメゾソプラノと勉強することもあり、沢山のことを吸収できたと思う。
私の夢は沢山あるけれど、その中でも大きな夢の3つだった、
ミラノ・ヴェルディ音楽院を卒業すること(何と9年越し)、
私にとって神様のFiorenza COSSOTTOと勉強すること、
Carmenを歌うこと、を今回の留学中に叶えることもできた。
そうして、2006年10月帰国。
新たなスタート地点に立ち、
これからが私のオペラ歌手としての真価が問われると感じている。

<お礼の言葉>
私に留学のチャンスを与えてくださった、
ロータリー財団・群馬県・イタリア政府・
(旧)安田生命クオリティオブライフ文化財団・文化庁の関係者の皆様、
これまで応援してくださった諸先生方とファンの皆さん、
日本とイタリアの友人のみんな、そして家族に、
この場をかりて心より感謝いたします。Grazie mille !!!

諸田 広美 Hiromi MOROTA

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